ザ・タイガースの元バンド ファニーズのころ Julie MC1997 [ザ・タイガース]

京南大学、田沼雄一は、1968年「リオの若大将」で終わり、マドンナの澄子さん(星由里子さん)も、これが最後でした [若大将 加山雄三]









加山雄三氏、30才を遂にこえてしまいましたが未だ!若大将!京南大学の大学生。田沼雄一。

されど若大将シリーズ、京南大学の大学生、田沼雄一は本「リオの若大将」にて終了。

1969年からは社会人シリーズの田沼雄一になり、マドンナも澄子さん(星由里子さん)最後のシリーズで、社会人シリーズになってからマドンナは節子さん(酒井和歌子さん)に変わるわけですが、星由里子さん、この時まだ20代半ばになるかならないか頃ですが、随分、昔の女優さんというのは大人びていて毅然とした品格があるなーと感じますね、、、。

時はGSブーム真っ盛りの1968年、ザ・ランチャーズが登場しているのもGSファンには見物でございます。

1966年、浜口庫之介氏によるザ・スパイダース初の!歌謡大ヒット曲「夕陽が泣いている」 [ザ・スパイダース]







1966年、ヒットメーカー、巨匠!浜口庫之介氏によるザ・スパイダース初の!歌謡大ヒットになった、オランダ、イギリスでも「Sad sunset」(夕陽が泣いている)として発売されたそうな、あまりリアルタイム、GSに詳しくなかった方、嫌いだった方でも、誰もが聴き覚えのある曲だと思われます。

ファンの間では有名な話しですが、ザ・スパイダースのメンバーはこの大ヒット曲、最初は乗り気ではなかったそうですが、イントロの印象的な井上尭之氏の「歪み系」ギターからはじまり、わりと全編に主旋律、歌の「合いの手」的に入ってるギター、ザ・ビートルズの「イエスタディ」あたりの影響なのでしょうか?、この後、GSお得意の手法になる壮大なストリングスとビートバンドのフュージョン(融合)サウンド。

かまやつひろし氏でしょうか?ファルセットのコーラス、堺正章氏のボーカルは、これもザ・ビートルズの影響?ダブリングでしょうか?、、、なかなか聴き所の多い、こちらも曲でございます。

しかし、若きレコードジャケットの井上順氏、美男子ですね〜。メンズファッション雑誌のモデルみたいです。

昭和元禄の、あか抜けた美人女性の代表だったように記憶しております、猛烈ダッシュ  小川ローザさん [青春もの]







小川ローザさんは1946年(昭和21年)生まれ。という事は今年2011年で65才か、、、。未だに!我が身の老いは棚に上げ、1973年、若くして芸能界を引退された小川ローザさんの姿、イメージはこの頃のままで、管理人は脳味噌が止まってる。

後のF1ブームより人気があったのではないか?と思われる、トヨタ7とニッサンR308はじめとするR38シリーズの、トヨタと日産が社名を賭け、盛り上がりまくっていた一騎討ちの日本グランプリ。

当時トヨタのトップレーサー川合稔氏は富士スピードウェイのスピードカップで準優勝を飾り、その時、表彰台でカップを渡したのが、今で言うレースクィーン、NETスピードカップなどでコンパニオンをやっていた小川ローザさん。

二人は半年後に結婚、夫婦でコロナのCMに出るなど幸せな生活が始まるのですが、それからわずか半年後、1970年8月26日、川合稔氏はテスト走行中、鈴鹿サーキットのヘアピンカーブで激突死。

1970年の日本グランプリ中止決定後も米国のCan-Amシリーズ参加を想定に開発テストを続けていたトヨタ7の開発は、これにて中止されたわけで、第一期モーターサイクルブームは、こうして終了。そして小川ローザさんも芸能活動を休止。

一度、復活しますがその後、完全に引退。

私達の前から姿を消したわけですが、しかし、小沢ローザさん、今年で65才か、、、。

ファンというのは勝手なもので、何時までもオー!モーレッツの小川ローザさん、川合稔氏の未亡人という印象だけを引きずっておりますが、川合氏との新婚生活というのは短かったわけで、芸能活動含め、その後の私たちが全く知らない人生の方が、小川ローザさんはもの凄く!長いわけです。

ジャンピン・ジャック・フラッシュ/ザ・テンプターズ Jumpin Jack Flash [ザ・テンプターズ]









1969年7月発売、新宿厚生年金ホールでの実況録音盤、これぞ!GSブーム!の耳をつんざく黄色い大嬌声の中、ちょーっとオープニング直後で当時二十歳前後の若きザ・テンプターズ、舞い上がり気味でリズムずれてるかな?って出だしですが、、、

突っ走り気味のザ・ローリングストーンズの不朽の名曲!「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」。

PYGでもしかりですが、一聴して出鱈目とわかるショーケン、萩原健一氏のボーカルの潔さ(?)が、案外、管理人は好きでして、また、ソレをレコーディングして全国発売するレコード会社の商魂も凄いわけですが、何より!当時、ストーンズの「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」をGSが、ザ・テンプターズが60年代末期に演奏していたという歴史が、管理人は嬉しいのでございます。

このライブアルバム「ザ・テンプターズ・オン・ステージ」が発売された頃から、GSブームは信じられない勢いで終焉、終息に向うわけですが、最後まで人気がありヒット曲を出していたザ・タイガースと共に、二大人気GSと言われたザ・テンプターズも御多分にもれず人気は急落。

同年12月には日本人初のメンフィス録音となった「ザ・テンプターズ・イン・メンフィス」が発表されますが(当時としては快挙だと思われます)、1970年になりヒットメーカー、作詞なかにし礼氏、作曲・編曲川口真氏の作品によるシングル「復活」「出来るかい?出来るかい?」も不発。

ラストシングルはデビュー曲、そしてザ・テンプターズ、ショーケン、萩原健一氏の人気を決定的にした!「神様お願い」同様、リーダーでありヴォーカリスト、ギタリスト、松崎由治氏による作品「若者よ愛を忘れるな」(1970.10月発売)で締めたのは、ザ・テンプターズらしいなと感じます。

が、ヒットする事なく、19670年12月末、東京大手町のサンケイホール内小ホールでの公演にて、ザ・テンプターズ解散。

以降、遂に!唯の一度も!再結成しなかった、唯一の人気GSではないか?と思われます。1997年、ギター&キーボードの田中俊夫氏、2009年、ドラマーの大口広司氏の死去により、ザ・テンプターズの再結成は永遠になくなりました。

ザ・カーナビーツ 君だけに愛を [ザ・カーナビーツ]







ザ・タイガースの人気、ジュリー、沢田研二氏の人気を決定的にした!1曲と言っても良いのではないでしょうか?。

「モナリザの微笑み」に続くGSブーム最盛期を迎える1968年1月、シングル第三弾発売、ジュリーの指差しポーズで日本中の女のコが卒倒、しびれた「君だけに愛を」の、こちらは指差しポーズ(スティック差しポーズ?)では、アイ高野氏歌う「好きさ好きさ好きさ」のヒットでジュリーより半年早かった(笑)ザ・カーナビーツの、カヴァーヴァージョン。

ザ・タイガースヴァージョンに比べると、ギター含めリズムもザ・カーナビーツらしいガレージパンクっぽいサウンドなのが特徴だと思われます。リードボーカルはドラムのアイ高野氏ではなく、臼井啓吉氏。アイ高野氏の独特の声がコーラスでかぶって、非常に!良い効果をだしてると思います。

ミュージック・ライフ編集長だった、現役ばりばり人気絶頂だったザ・ビートルズに初めて単独取材をした事で有名な「ミュージックライフ」編集長だった星加ルミ子さんによって、ロビンフッドというバンド名からザ・カーナビーツと名を改めたそうで、英国のリージェントストリートと並ぶ有名な、カーナビーストリートから命名されたそう。

で、67~68年のGSブーム最盛期にはとても人気の高かったバンドですが、昨日まで盛り上がっていたGSブームの突然の!急激な!(記録的と言っても良いかもしれないです)終息に、最後迄ヒット曲をだし人気のあったザ・タイガース以外、全バンドがそうであったように、ザ・カーナビーツも逆らえる事は出来ず、他GSより少し早い1969年9月、解散。

ドラマーでシンガーのアイ高野氏は、元々GSブームでGSに括られていただけで、本格的なR&B、ブルースバンドだった、時代をリードするニューロックに突入したザ・ゴールデン・カップスのドラマーに、作曲家の鈴木邦彦氏に熱望され、ソロ歌手になるため脱退するグループの中でも女性人気の抜群に高かったマモル・マヌー氏に代わり、1970年1月加入。

1972年1月ザ・ゴールデンカップス解散。その後、80年代になり何度か再結成されているカップスのドラムも、アイ高野氏が担当してます。

1977年、クリエイションの竹田和夫氏が結成した「竹田和夫オールスターズ」に、チャー氏等のスモーキー・メディスン、金子マリ&バックスバニー・カルメン・マキ&OZでお馴染みのベーシスト、鳴瀬喜博氏、伊丹幸雄氏、あいざき進也氏、キャンディーズのバックバンドも務めていた、この後、スペクトラムを結成、新人バンドだったサザン・オールスターズのアレンジを担当する事になる新田一郎氏、巨匠!成毛滋氏等と共にドラマーとして参加。

その後、1981~84年迄、竹田和夫氏率いるクリエーションに参加。

藤竜也氏、草刈正雄氏、柴田恭平氏等によるTVドラマ「プロハンター」テーマ曲、「ロンリーハート」の大ヒットを出し、クリエーションが松田優作氏のサポートをやっていた時もメンバーでありました。

熱狂的な黄色い声援を受ける若きザ・ローリングストーンズのLIVE=「タイム・イズ・オン・マイ・サイド」 [ザ・ローリングストーンズ]







当時の多くの若者達は、ザ・タイガースはじめGSのカバーでこの曲、ザ・ローリングストーンズを知ったわけで(当時からジャズファンばりの、コアなロックファンは例外として)、観て聴いての通り、もの凄い!黄色い声援。

ザ・ビートルズや日本のGSと殆ど同じ、ストーンズもまた当時はアイドル的大人気だったのがわかると思います。

「ストーンズはイギリスでアメリカのブルース、R&Bを広める為に結成した」と、キース・リチャーズがインタビューで述べておる通り、ストーンズは当初、商業的な印税収入なんて事は考えず、ただ純粋にアメリカの黒人音楽をカバーし、それを紹介する為にライブをやり、そしてレコードデビューしたので、当初のアルバムはアメリカ黒人のブルース、R&B、R&Rが殆どで、こちらタイム・イズ・オン・マイ・サイドもR&B歌手の、2011年現在も健在!アーマ・トーマスがオリジナルでございます。

GSのカバーでこの曲とストーンズを知り、そしてもっと深く探るとストーンズのオリジナル曲でもなく、ストーンズが心酔する!(当時はそれがイギリスでは、相当!最先端にナウくてハイセンスでカッコイイ事だったようです)アメリカの黒人音楽、R&Bのアーマ・トーマスのオリジナルだったと。GSもストーンズもロックも、深いのでありまする。

北国の青い空 雨の御堂筋 京都の恋/THE VENTURES - POPS in JAPAN [ザ・ヴェンチャーズ]









ザ・ヴェンチャーズはドン・ウイルソンと亡くなられたボブ・ボーグルの二人で結成されたのだから、ボブが亡くなっても、ドラマーのメル・テイラーが亡くなって、その御子息が代わりに参加していても、ドンが健在で演奏してさえいればザ・ヴェンチャーズと思います。

又、リードギターの日本中でエレキブームが巻き起こった時の主役、ノーキー・エドワーズ、そしてその後任でメンバーになった、彼がデラニー&ボニー脱退後、彼の代わりに参加したサポートギタリストが、かの!エリック・クラプトンだったジェリー・マギー(エルビス・プレスリー、モンキーズなど多数のレコーディングやセッション経験者)、元気に弾いてる限り、ザ・ヴェンチャーズは不滅!

空前のエレキブーム、GSブームが終焉しても、ザ・ヴェンチャーズはブーム最中の「二人の銀座」(和泉雅子&山内賢)を皮切りに、所謂「ヴェンチャーズ歌謡」、日本人に楽曲を提供するようになり、1970年、日本レコード大賞企画賞受賞曲の渚ゆう子さんの「京都の恋」含め、多くの楽曲を提供し、日本での人気を確固たるものにしておりました。

LIVEでのオックス「ガール・フレンド」の、場内の女の子達の黄色い声援と大合唱の凄さ! [オックス]









ザ・テンプターズの新宿厚生年金会館でのライブ音源「涙のあとに微笑みを」でも書きましたが、この凄まじい大嬌声に場内の女のコ達の大合唱。

テンプターズのソレよりもこちらは凄い、殆どオックスの歌が聴こえない(笑)場内の黄色い声の大合唱音源を、レコードにして売り出してた当時のレコード会社の商魂もいやはや凄いですね〜。

そしてその逞しい商魂のおかげで、当時の狂乱のGSブームの生音源?空気がこうして残っているのは、今となっては感謝するわけであります。

こちら「オックス・コンプリート・コレクション」、Amazonで視聴できますので、興味のある方はライブの全貌を!聴いてみると良いですね(視聴なので1曲は短いですが)。

R&R、チャック・ベリーの「ジョニー・ビー・グッド」、R&Bの「サニー」等やっていて視聴だけでも楽しめますし、ザ・ローリングストーンズの「一人ぼっちの世界」そして!かの有名な!失神ソング「テルミー」もやっております。

しかし、、、この会場の大合唱!大嬌声!の女のコたちに、本当に冗談ではなく感動してしまいます。

そして曲の途中のMCは、何処のGSもそうでしたが「皆さん」「ボクたち」。けっして「おまえら」だの「おれ達」だの言わない。

このGSの「皆さん」「ボクたち」が、当時の銀幕、映画の中の女性の言葉「まっ、しりませんは」的なソレと並んで、個人的にやたらと新鮮に感じます。

「ガールフレンド」。GSブーム最盛期の!1968年5月発売。作詞はザ・タイガースでもお馴染みの橋本淳氏で、作曲は大学の先輩だったそうな橋本淳氏に勧められ作曲を始め、同じくザ・タイガースの楽曲でお馴染み、昨今の若者にはドラゴンクエストでお馴染み、すぎやまこういち氏に師事、1967年から専業作家となった、未だ新進気鋭だった頃の筒美京平氏。

ザ・タイガースのあの!ジュリー、沢田研二氏の指差しポーズで有名な「君だけに愛を」発売が1968年1月、両面ヒットになった「銀河のロマンス/花の首飾り」が同年3月。

ザ・テンプターズのショーケン、萩原健一氏の人気を決定的にした!「神様お願い」が同年3月、「エメラルドの伝説」が同年6月。

そしてザ・ワイルドワンズの新加入、ジュリー、ショーケンに一時は迫るアイドル人気を博したチャッピー、渡辺茂樹氏の歌い大ヒットした「バラの恋人」が同年4月、ザ・スパイダースの「「あの時君は若かった」が'同年3月発売で、このオックスのデビューヒット曲「ガールフレンド」が同年5月発売ですから、、、

如何に!1968年が空前のGSブームの頂点だったか、リアルタイムを知らない若い層でも、わかると思います。


前野曜子/別れの朝 ペドロ&カプリシャス [リッキー&960ポンド]







GSブーム終焉後の1971年、いきなり週刊オリコンチャートで4週連続1位を獲得し、デビュー直後のペドロ&カプリシャスを一躍大人気バンドにした名曲。「別れの朝」。

前野曜子さんの歌唱&ルックスの素晴らしさを世に知らしめた1曲でございます。

前野曜子さんは、宝塚歌劇団退団後、赤坂の踊り場、ディスコ「MUGEN」でのゴーゴーガールを経、宝塚時代に知り合った亀渕友香さんと、この「MUGEN」で再会したのをきっかけに、リッキー&960ポンドに参加。

GSブーム最盛期から衰退に向う1969年、西丘有里名で「ワッハッハ」をヒットさせ、ペドロ&カプリシャスの「別れの朝」で大ブレイクいたしますが、その後、グループを脱退。

紆余曲折の人生後、1988年7月、40歳の若さでお亡くなりになられておりますが、ペドロ&カプリシャスは前野曜子さん脱退後、二代目女性ボーカルの髙橋真梨子さんの歌唱による「ジョニィへの伝言」「五番街のマリー」の連続ビッグヒットにより、その名を世に知らし続けました。

バンドマスターのペドロ梅村氏は第一回日本レコード大賞受賞曲「黒い花びら」でお馴染み、水原弘氏のバンド、水原弘とブルーソックスオーケストラ、「硝子のジョニー」「赤いグラス」でこちらもお馴染みアイ・ジョージ氏のトリオ・クバーナと、当時の実力派歌手の方々のサポートを、ペドロ&カプリシャス結成以前は勤めていたそう。

で、赤坂の「MUGEN」「BYBLOS」同様、かつて六本木でその店ありと言われていた、踊り場、ディスコの「ソウルイン・アフロレイキ」のオーナー、マリオ山口氏が、アイ・ジョージ氏、ダン池田とニューブリード(2011年現在、三原綱木とニューブリード)、チャーリー石黒と東京パンチョスと関わっていたパーカッション奏者、ミュージシャンでもあったのと、とても経由がペドロ梅村氏も似ており、、、

この60年代、70年代初頭当時の東京の踊り場、ディスコ、GS、エレキバンド、そしてラテン、キューバンジャズを基調にした、当時、歌謡番組やグランドキャバレー演奏等で大人気だったビッグバンドとの関わり、もっともっと検証していかなければいけないと、管理人は未熟者ながら思っております。

ペドロ&カプリシャスは、歴代の女性ボーカル交代含めメンバー交代は頻繁なれど、2011年現在、1971年から40年続いている、一度も解散した事がない長寿グループ、日本の老舗バンド、グループでございます。

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